京都
藤原百川(墓)−木津川市相楽城西−
藤原百川墓(隣に夫人の墓がある。)
 木津川市相楽神社の北西200メートルほどのところに藤原百川(732〜779)の墓(写真)がある。墓は双丘をなし、百川と同婦人が眠る。延喜式の諸陵寮式にしるされた百川墓の所在地からこの塚が百川墓に比定され、明治28年の奠都記念祭に当たって墓の整備が行われている。
 百川は山部親王(桓武天皇)の擁立を果たし、長岡京遷都を主導し、京都奠都に導いた人物。京都人の百川への畏敬は相当なもので桓武天皇を祀る平安神宮の時代祭りも奠都記念祭が行われた明治28年からはじまった。
 桓武天皇の皇太子擁立は、皇統が天武系から天智系へかわる起点となったこと、また奈良から離れ京都奠都することにより旧態のしがらみが一掃され政治に活力が生じたことなど、我が国の歴史の転換点ともなった。
 天武系皇統は、第40代天武天皇から持統(41。天武后)、文武(42)、元明(43。草壁皇子妃、文武・元正母)、元正(44)、聖武(45)、孝謙(46)、淳仁(47)、称徳(48。孝謙の重祚)と続いた。この間、藤原氏は鎌足以来の皇室の外戚として朝廷の実権を握り、鎌足の子不比等が4人の子をもうけて麿が京家、宇合が式家、房前が北家、武智麿が南家と分枝し、藤原家の安泰は不滅のものかと思われた矢先、天平9(737)年、左大臣藤原武智麿ほか4家の総領が疫病により次々と亡くなる。翌天平10(736)年1月、賜姓により橘諸兄と名乗っていた敏達天皇を祖とする美努王の子葛城王が右大臣となり、唐から帰朝した地方豪族出身の玄ムや吉備真備を登用し、二人は聖武天皇の寵愛を受ける。そのころ宇合の長子に藤原広嗣がいた。将来を嘱望された藤原式家の貴公子で総領だった。兄弟に百川、甥に種継がいる。諸兄は広嗣の義理の伯父。広嗣が頭を押さえられるような息苦しさを感じていたとしても不思議ではない。天平10年(738年)12月、広嗣は突然大宰少弐に左遷され、これを不服とした弘嗣は玄ム、真備の排除を求め筑紫で乱(藤原広嗣の乱)を惹起させる。弘嗣は斬られ乱は鎮定されても、都を転々とする聖武天皇。聖武天皇崩御後も寵愛を受け権力を維持し続ける真備。復権を窺う藤原家。不気味な沈黙が続く。称徳女帝が崩御すると皇位の継承をめぐり藤原家の巻き返しがはじまる。右大臣吉備真備は天武系の踏襲に強くこだわり天武の孫・文屋浄三、その弟大市を推戴する。しかし、神護景雲4(770)年8月4日、女帝の死後突如、藤原北家の永手(左大臣)、同式家の良継(参議)、百川(左中弁)らが天智天皇の孫白壁王を皇太子と定め、宝亀元(770)年10月1日、白壁王(天智系)を皇嗣とし改元を行う女帝の宣命を読み上げる。光仁天皇の誕生である。このとき白壁王は齢62歳の老天皇であった。真備は失脚。さらに深刻な事態がおこる。光仁天皇即位の3年後、皇后・井上内親王(父聖武。天武系)が天皇を呪い殺そうとしたという密告があり、同内親王は廃后、その子他戸親王も皇太子を廃され大和国宇智郡に幽閉される。2人ともに3年後の同じ日に死亡。替って光仁天皇の子で中務卿であった山部親王が皇太子となる。ときに37歳、11年後に桓武天皇となる。山部親王は光仁天皇の長子であったが、母高野親笠たかのにいがさは百済系の渡来氏族・やまと氏の出身。卑姓であったことから自重するところもあったのだろう。天武系の井上内親王と他戸親王の2人の急逝により中央政界の勢力図が塗り替わると、事態は一挙に動きはじめ延暦13(794)年、奈良から長岡京への遷都が成り、次に京都奠都が現実のものとなったのである。
 百川は藤原宇合の8男。ほとんど歴史の表舞台に顔を出さず、宝亀10(779)年、従三位式部卿在任中に薨去。47歳の生涯であった。後年、官人の最高位正一位太政大臣を追贈された。人それぞれの生き方があるが百川はいわば同族意識の強い策略家、うがった見方をすれば謀略家の資質を備えた人物であったと思われる。日本史を長く支え続けた藤原家にはしばしばこの種の人物を温存し、権力闘争を勝ち抜き、日本史に長くその名を残しえたのである。
 光仁天皇即位の宣命、井上内親王の大逆事件、山部親王の擁立等々一連の事件は古来、百川の策謀とする説が根強くある。慈円が愚管抄で百川の謀と指摘しているくらいだから、案外早くから底割れした事件であったのだろう。桓武天皇即位後も天武系皇族の巻き返しともいうべき氷上川継事件をみている。皇位継承にまつわるわだかまりは長期にわたり潜在化した事情等考えると、百川の死因もまた疑ってかからないといけないのかもしれない。−平成23年2月−
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