京都
ただすの森(下賀茂神社)−左京区下鴨泉川町−
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞすむ  <新古今和歌集 鴨 長明>
 京都の下賀茂神社の境内地に糺の森がある。ナラやケヤキの落葉樹が繁る森である。森は鴨川と高野川が合流する三角州の先端部にあたり、岸辺からは浮島のように見えたことであろう。
 糺の森にささやかな小川が流れている。湧水を水源としているようであるが、鴨長明の歌に、「石川や瀬見の小川」とあり、古くから鴨川(石川の別称)から導水されていたことを思わせる。
 冒頭の歌は、鴨社の歌合(源光行主催)で鴨長明が詠ったものである。長明は賀茂御祖神社(下賀茂神社)の神官の家に生まれているから、瀬見の小川や故事を当然知っていたわけで、川に映る月に観じ、賀茂神社の縁起(神がその流れを尋ねて鎮座した)を重ねて詠んだのである。しかし、歌合の判者源師光は、瀬見の小川を知らなかったようであり、長明の負けにしたことが無名抄にみえる。師光の父は大納言であった。師光が熱望した官位に恵まれなかったのも案外、そうした不用意さが災いしたのかもしれない。長明もまた、糺の森に鎮座する下賀茂神社の摂社河合社の禰宜となるべく奔走したが、願は叶わなかった。以降、神官への夢を断ち切って日野山の隠者となるのであるが、長明は方丈記などの随筆はむろん和歌の方も藤原定家らとともに和歌所の寄人となっている。また琵琶の奏者としてもきこえていたから、長明は当代の文化人として異彩を放っていたのだろう。
 糺の森は、秋の紅葉の季節もまたよい。


 賀茂神社の起源説話によれば、鴨族はもともと大和の葛木(葛城)山にいた。その祖賀茂建角命が八咫烏となって神武天皇の大和平定の先導をつとめ、後に山城の岡田の賀茂(今の木津川市加茂町)に移り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川(鴨川)の合流点にたどり着いたところ、賀茂川の流れが清らかであったので上流の久我(賀茂地方)に住んだ。賀茂建角命の娘玉依日売が賀茂川の上流から流れてきた丹塗の矢に感じて身ごもり、賀茂別雷命を生んだ。玉依日売と賀茂建角命は賀茂御祖神社(下賀茂神社)に、賀茂別雷命を上賀茂神社に祀るようになったという縁起がある。
 鴨族の発祥葛城山の麓に高鴨神社が鎮座する。当地を旅立った鴨族は、日本各地に枝村をつくり、また賀茂神社の荘園に組み込まれ、同社の祭神を勧請したから、鴨、賀茂、加茂と名のつく神社や地名が全国に散在し、その数も驚くほど多い。
 原初の賀茂神社は鴨族の氏神であったが、桓武天皇の平安遷都によって賀茂神社は人々の尊崇を得て、賀茂詣が盛んになり、皇城鎮護の皇大宮神社と称された。弘仁元(810)年から約400年間は、賀茂斎院の制によって皇女が斎王となって賀茂神社の神事に奉仕する社であった。この神社の5月15日に催される賀茂祭(葵祭り)は、源氏物語など王朝文学作品にもしばしばと登場し、洛中で最もよくきこえた祭であろう。その他、千年以上続く盛儀も多い社である。