京都
神護寺−右京区梅カ畑高雄町−
 洛中の東に36峰が挙立し、その西には嵐山・天王山の山峰が要害をなす。宇治川を隔て、その南に奈良丘陵がなだらかな山塊を横たえる。北にはいわゆる北山の山嶺を負う。京都の四周は山河襟帯の名に違うところがない。
 北山の山中に神護寺という寺がある。清滝川の断崖上に開けた寺。真言宗大覚寺派の別格大本山である。もとはここに高雄寺という古刹があった。天長元(824)年、勅許を得て和気清麻呂の子真綱が河内にあった氏寺神願寺を高雄寺に移し、神護国祚真言寺と改称した。
 清滝川に架かる高雄橋を渡り、石段を200メートルほど行くと山門がある。門の北に方丈がある。高雄御所といわれた玩玉院の跡である。金堂(本堂)が南面し、薬師如来を安置する。延暦年間(782〜806)の造立。もと神願寺の本尊であったといわれる。薬師如来は、量感豊かなモデリングと衣文に特長がある貞観彫刻の名作である。本堂の西に大師堂、金堂の後に講堂があり、五大虚空蔵菩薩を安置する。講堂の北に鐘楼と和気清麻呂墓などがある。堂宇の大半は江戸時代の再建になるもので、多宝塔は昭和に再建された。
 高尾山は有名な紅葉境。満山の紅葉が清滝川に映じ、幽境は一変して燃えるようになる。本堂から下った地蔵院辺りから眺める清滝川の紅葉は当山第一の景観であろう。清滝川に沿って数百メートル下れば槙尾の西明寺に出る。

和気清麻呂
 和気清麻呂は備前美作の豪族の出身で、姉の広虫とともに早くから中央に出仕した人のようである。広虫は法均(尼)と名のり、孝謙(称徳)女帝の側近として仕えた。清麻呂も女帝を支える人材として、それなりの地位にあった者なのだろう。しかし、このとき清麻呂は、恵美押勝が失脚し、自らの生涯に大異変をもたらすべき大事件に遭遇するなどとは思っても見なかったであろう。
 恵美押勝が失脚後、女帝にはともに政治を動かしていた僧弓削道鏡が寄りそっていた。河内の出身で呪術をよくした道鏡は女帝の寵愛を得て、大臣禅師に任命されると翌年には法王の位を得て、法王宮職が置かれるなど皇親に匹敵する扱いを受けるようになる。終に道鏡は、皇位を嘱望するようになったのであろう。そのうちに、道鏡を皇位につければ天下泰平になるとの宇佐八幡(写真左)の託宣が伝えられる。そのときの太宰帥は道鏡の弟弓削浄人であった。臣下が天皇になった前例はなく、女帝は道鏡可愛さに思い悩むうちに、八幡神の使者が女帝の夢枕に現れ、法均に正しい神託を伝えたいと告げたのである。占いや迷信が信じられていた時代であるから、夢枕を受け法均が宇佐へ向かうべきところ病弱ゆえ、代わって清麻呂が宇佐に向かった。八幡神は最初、道鏡を天皇にせよと宣託し、清麻呂が更に問うと天日嗣あまつひつぎは必ず皇族をたてよと宣託をくだした。宣託を聞いた女帝と道鏡は怒り、清麻呂は別部穢麻呂わけべのきたなまろに、広虫は別部狭虫わけべのさむしと改名させられ、清麻呂は大隈国に流された。しかし、宣託が再び変わることはなく、女帝の死後、道鏡は下野薬師寺へ配流となって寂しく死んだ。
 藤原広嗣、橘奈良麻呂、恵美押勝、不破内親王と続いた乱は、治下を省みない権力闘争が常在した時代の所産であるが、ついに皇位をも欲する道鏡が現れ、世も大いに乱れることとなったのである。
 和気清麻呂は後に京に戻され、名誉を回復し、平安遷都を進言したり、神崎川と淀川の合流事業を推進し、それぞれ成功させるなど数々の功績を残している。