京都
岩王寺−綾部市七百石町寺ノ段−
 岩王寺しゃくおうじは真言宗高野山末の寺。寺伝は、天暦3(949)年、空也上人の開創と伝えている。山号を神宮山と称しているのは近隣の式内社島蔓神社との所縁を感じさせる。丹波の古刹のひとつである。
 中世には、元弘3( 1333)年4月、足利尊氏が後醍醐天皇を奉じて篠村八幡宮に陣地を築き、老いの坂を越え六波羅を攻め、鎌倉幕府を滅亡に導いた際、尊氏は上杉兵庫入道に命じ岩王寺に必勝祈願し、目的を遂げた翌建武元年2月、寄進状を発し岩王寺に田地2町を寄進している。寄進地は兼里(七百石)など八田郷内にあり、上杉氏(足利尊氏の生母上杉清子の家系)の勢力は八田郷辺りにまで及んでいたことがわかる。
 岩王寺は顕密の道場として栄え、尊氏が挙兵の折には衆徒が呼応し、大いに寺勢を増し堂塔が林立し、香煙が絶えることなく、山陰の聖地として大いにさかえたという。
 しかし、室町幕府の衰運とともに領地は横領され、慶長年間には薬師堂と小堂宇を残すばかりであった。その後、江戸時代に岩王寺に秀蓮がでて漸次勢力を回復し、元禄三年ころには寺領は七百石に及んだという。今の町名‘七百石’はその名残であろう。
 栄枯盛衰、岩王寺はまた衰運に傾き、今は草葺の仁王門、本堂、庫裏をとどめるのみ。みな草葺でさびた山寺の趣である。
 岩王寺をシャクオウジと発音する由来について、寺伝は嵯峨天皇とのゆかりを伝えている。当地に産する石で造った硯を天皇に献上したところ、三筆のひとりとしてきこえた天皇は、硯を「石の王子であるべし」と絶賛し、石王子をシャクオウジと発音されたよしである。文政元(1818)年12月、丹波で検田が行われ畳表、煎茶、栗、松茸、ほうづきなどとともに岩王寺石が特産品とされ珍重されたようであるが、いつのころからか採石が行われなくなっている。
 静かなときの流れるよい空間に岩王寺はある。特に、春秋の頃がよい。−平成19年5月−