京都
笠置寺−京都府相楽郡笠置町大字笠置小字笠置山−
 さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家も
 なし <後醍醐天皇>

 笠置寺は南朝の悲劇そのままに、哀史を秘めたところである。
 元弘元(1331)年、吉田定房の密告によって日野俊基らの鎌倉幕府討幕の計画が露見する。同年8月、後醍醐天皇は京都を逃れ奈良に遷幸し、笠置寺に籠って討幕の兵をあげる。楠木正成が呼応して千早赤阪城に挙兵。攻防1か月、天嶮の要害笠置山は陥落。落ち延びて行く天皇は捕らえられ、鎌倉軍の総大将大仏貞直に引き渡され、六波羅に拘禁。翌元弘2年3月、後醍醐天皇は隠岐島の配所に流される。
 このときの戦乱で笠置寺の諸堂宇も行在所も炎上し、49子院を配し盛観を極めた寺は灰塵に帰する。被災後、寺は再建されたが、三度にわたる火災或いは地震に倒れ、寺の本尊であった高さ15メートルにも及ぶ大岸壁に刻された石造弥勒如来はその姿をとどめていない。少し離れた高さ8メートルの巨岩に刻された虚空臓菩薩(写真上、右下)と元弘の戦乱で落命した諸兵の供養と見られる十三重塔(写真左下)が笠置の懸崖を衝く。寺は今、山上の福寿院に伽藍の断片をとどめるばかりである。
 笠置寺の名称は天武天皇が皇太弟の時、当山に猟をし、鹿を追って危地に臨むと仏の加護によって難を逃れた印として笠を置いて帰られたので笠置の名がおこったという寺伝がある。その後、皇太弟は帝位につ就き白鳳12(672)年、巨岩に刻んだ弥勒像を本尊として壮大な伽藍を建立したということである。また、役小角が参籠し、修験道の行場として吉野の大峯に比較されるほどであった。山頂の平等石に上れば、木津川は帯のように却下を流れる絶景がある。

十三重塔 虚空臓菩薩