京都
生野の里−福知山市生野−
大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立 <金葉和歌集 小式部内待>

生野の里(山陰道)丹波に生野というところがある。昔、山陰道の要駅として栄え、藩政期には宮津、峰山、豊岡等々の各藩主が参勤交代の際、ここに宿をとったところ。九鬼(綾部)藩の管轄下にあった。
 そこは丹波高原の北端辺りに在って、坂を下るとビュートの山裾に生野神社(写真下)が鎮座する。延喜式内社。藩政期には「御幣(みてぐら)はん」と呼ばれていたという。神社は山陰道の街道筋に面していて、旅人は祭神に御幣を献じ道中の安全を祈願したのである。
 生野の里は都にきこえた山陰道の要駅。都を発ち単調な丹波高原を延々と行く旅人にとり生野は天橋立までまだ道半ばのところ。旅の疲れも重なり望郷の念が生じるころだ。標記の小式部内待の歌は、その母和泉式部が夫藤原保昌に随って丹後にいるころ、都で行われた歌合せの日に中納言定頼に「うたはいかがせさせたまふ、丹後へはひとつかわしけんや、使はもうでこずや、いかに心もとなくおばすらん」(金葉和歌集題詞)など挑発され詠んだもの。小式部が天橋立を見たこともなく、母の手紙もまだまいらないと縁語掛詞を駆使して詠むと、定頼は返歌を考えたがやがて走り去ったと俊秘抄は伝えている。歌中の大江山は「老いの坂」(貝原益軒)と丹後与謝郡の大江山の二説あるが後者と考える方が小式部の意図に合うように思う。
 小式部もまた母和泉式部同様、歌才に恵まれていたのだろう、万寿2(1025)年、母に先立ち瞑目。標記の歌は小倉百人一首に採られている。
 冬の日、生野の里は小式部内待の「生野」の面影を白々とした街道に滲ませて静まり返っている。−平成24年1月−

生野神社 神社前の家並